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別府ぅな侍
資料をみる高田の写真。
 
Page6 記憶を引き出すこと

インタビューを終え、今井は高田の家を離れた。霊泉前のバス停に立ち、今井は何も考えずにだだっ広い道路を走る車を眺める。手には高田から貸してもらうことができた勾玉陣地の生き残りの方の資料や他に別府に住んでいた方の手記などがあった。

「これをどうまとめればいいのだろう」

 率直にそう思う今井自身が心の中で語りかけてきた。

 四月の終わりに今井は高田の家をもう一度訪れた。最初のときにはあまり戦争のときの話は聞きたくなかった、だから今回のインタビューでは少しでも深く話を聞ければ、と今井は考えていた。高田は前回と同じように毛布をかけて座っており、

「今井さん、読売テレビが前に放映してくれたビデオを用意しておきました」

 と高田は下を向きながら言い、ビデオをつけてもらえませんか、と今井に付け加えた。

 今井が再生スイッチを押すと、ビデオが始まり読売テレビのアナウンサーが話し始め、昭和六十三年と画面に映し出された。

「これは私が中国の東寧にゆき、勾玉陣地に行ったときのことです」

 勾玉陣地というのは高田が配属されていた場所の陣地だ。

「ここで仲間の遺骨や遺品などを探していたんです」

 そういって高田は静かになった。今井は前回のインタビューで高田がどれだけ戦友たちが本当に亡くなったのか、どこでどのように亡くなったのかということにこだわっていたかよくわかった。昭和三十二年から今の今までである。旧ソ連の土地や中国の森林の地帯で亡くなった戦友の場所を見つけ、墓を建てることまで仲間としている。

「実際帰郷しているのか、どこの出身か、ソ連に残ったのか、戦場で生き残ったのか、戦場で最終的に(亡くなった人が)どこで見られたとか。勾玉陣地の人だけではない、国境守備隊全員を調べた。自分の部隊だけではない。ソ連の侵攻は昭和20年の8月9日なのだけれど、入隊が7月の人が多くて動ける人を部隊に引き込んだ。だから、自分がどの部隊にいるのか自分がおる位置がわからないまま戦闘に突入して亡くなったらただ消えてしまっただけになってしまった。そういう人がたくさんいた」

 高田は前回のインタビューでこう述べていた。僕は高田も映像を見ながら自分の思いを確認しながら見ているのではないか、と思いながら映像を見た。

 三十分ほどの時間が過ぎ、映像を区切りのいいところで止め、今井は高田に聞き始めた。

「高田さん、すごく端的に聞きたいのですが、今あの戦争についてどう考えてらっしゃるんですか。たとえば、戦争を起こした人などに恨む気持ちなどはないんですか」

 高田はすぐに反応した。

「恨む気持ちというのはないよね」
「それはなぜですか」
「戦争がそうしたんだから。人間と人間の殺し合い。今、個人だってその人だって命がほしかったんだから。当時、60人ぐらい陣地で爆死させたというのはあったけれど、一般的に見たらとんでもない話だけれど当時としては当たり前だった。戦後になって「あんなひどいことを」と当時の自決などを批判する人もいるけれど、戦争がさせたんだよ」

 今井は、うーん、としか言えなかった。高田は続けた。

「確かに軍隊の私的制裁はひどかった。毎日ですね、棒で叩かれることもあれば、理由なんて言うのはひとりが失敗すればみんながやられるからね。残酷そのものだよ。自分には非がないよ、でも他人に非があれば自分がやられるから。あいつを殺してやりたい、という人もいた。ただね、それは戦争がさせたものだと思っていた。私も戦争がなければ盗みをしなかったしね。戦争は人と人との殺し合いだしね、その中で行われることでいいことなんていいはずないじゃない」

 しばらくの沈黙があった。外からは右翼の街宣車のスピーカーから流される軍歌のような音楽が不意に聞こえてきた。高田はそれを気にせずにふっと思い出したように言葉を始めた。

「私自身、あの陣地で昭和50年ぐらいまでは私ひとりしか生き残ったものはおらんかったんだと思っていた。でも、別れた三人がどうなったのか、と追求していましたね(注釈 四人のうち一人はもう亡くなっている)。東京都にね、衛星兵の人、東京の港区だったんだわ。その衛生兵だった上野清さんのことを電話帳をめくって「上野清」の名前を探して全部調べた。いまだにわからない。他のひとりは新潟の日教組の委員長をしていたとは来たのですが、その人も見つからなかった。生きちょるっていう証拠は得たのが、厚生省のデータで上野清と佐藤充夫という名前が出てくるんだ。二人は生きて帰ってきているんだ。東京にいるかどうかもわからない。もう私らも年だから、いまだに生きているかというのはわからない」
「そうなんですか」
「でも会いたいね、生きていたらね。でも、ほとんどの手は尽くしたけれどね。新潟県にも頼んだし、東京でも見つからなかったし。佐藤さんの調査資料とかはたくさんあるんや。ずっと探していたんだから、昭和三十に年からずっとね」

 そういって高田は手元の資料を今井の目の前に置いた。

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記者:今井紀明