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別府ぅな侍
学長室で写真。
 
はじめまして。今日はお忙しい中、お時間をさいていただきありがとうございます。早速ですが、ご出身はどこでしょうか?
出身は大阪です。昭和13年の生まれで、小学校に入る前後に戦争の体験をしています。B29の爆撃機がやってきたときにはサイレンがなり、防空壕に入らなければならず、サイレンの音はいまも耳についています。小学校6年ぐらいまで授業の開始・終了のサイレンが鳴っただけで心臓がドキドキし、怯えていたことやその頃空襲で寝ていたところを母親に起こされ、防空壕に抱いていってもらい近隣の人びと空襲が納まるまで静かにしていたことが思い出されます。そして、家族が心配し、兄と私を滋賀県に疎開させました。
そうですか。私も大阪の空襲の話は読売新聞の特集で見たことがありますが、戦後の様子はどうでしたか?
戦後、私たちの学校には何もありませんでした。校舎があるだけで、教科書もノートもありません。学校に行っても2部制で午前中勉強するだけ、それも先生がなにかお話をするだけで、勉強らしいこともせずに家に帰り遊んでおりました。ただいつもお腹は減っていました(笑)。
なるほど。西村さんは子どものとき、どのような少年であったのでしょうか?
平凡な子どもでした。勉強もしなく、野球だけをしておりました。私たちの世代で共通していた遊びは野球だったのではないでしょうか。私は野球少年でしたね(笑)。グローブもボールもないし、何もないけれども、自分たちでグローブやボールを作り、大阪であるけれども、その頃は自動車も通らないし、馬車がたまに通るぐらいですから、電柱と電柱をベースにしてみんなで楽しみました。その頃はいまのようには豊かではないが、子どもたちが自分たちで考えながら仲良く遊んでいましたね。いじめもあったが、親にも言わず、自分で解決していました。
そうですか。中学まで野球をしたのですか?その後はどうでしたか?
中学のときは体格も小さく、怖がりの癖にラグビーをしたりし、運動が好きでした。あまり褒められるような選手ではありませんでした。ただ、野球が好きでしたし、運動が好きでしたので、高等学校ではクラブには属さないで、バスケットボールや大学では硬式テニスをしたりしておりました。私たちの時代は塾もないし親も子どもに干渉しないし、のびのびと自由に育ったように思います。私自身は高校から少し勉強をし始めましたが、子ども時代に思い存分遊びすぎただけにいつまでも勉強しなければならないという意識がいまも残っています。残されている宿題を今しているといったところです。
大学の話に移りますが、どのように大学生活を過ごしましたか。研究者になりたいという希望はあったのですか?
大学に入ったときから少し学問に興味を持ち始めましたが、学者になるとは夢にも思っていませんでした。ただゼミナールという高等学校に無いシステムとすばらしい先生に出会い、学問への関心が出てきました。そこで、自分でいろいろな本を探し、特に法律や社会科学に関する本を読みました。私たちの時代は学生運動の盛んなときで、安保闘争が1960年ですね。社会の激動期で、それだけに世界の動きへの関心も高まり、また将来を考えさせられました。外国については特に興味がありましたが、今みたいに自由に外国に行けるようなときではなく、アメリカに行くのも1ドル360円ぐらいする時代ですからね(笑)。本の知識から世界を知るほか方法はありませんでした。特に鉄のカーテンの旧ソ連や竹のカーテンの中国といわれたように、未知の社会主義国への興味は大きかったですね。今日のようになるとは、全く想像もできませんでした。
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記者:今井紀明