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フナキ・カイツゥさんのプロフィール トンガ出身 2000年APUに入学 2005年大学院を卒業後、APUアカデミックアウトリーチ勤務。 |
まずは別府に来る以前、トンガでの事をお聞きします。
トンガでは小学校を出てからトンガハイスクールに入学しました。名前がそのままなんだけど(笑)そこは中高一貫校で、6年間通っていました。ちょっといやらしいかも知れないけど、国の中ではトップの学校だったんですよ(笑)国の試験があって、トップの100人だけ入学できるんです。私は合格してしまった(笑)自分でも自覚はなくて、「オレはトップだ!」っていう感じではなくて、むしろ「あれ?合格しちゃった」という感じで。その学校は沢山テストとかあったんだけど、1回でもFailしたら退学になってしまう。授業はもちろん休めないし厳しい学校でした。学校の中で話すのは英語だけ。というのも王様が国際的に活躍できる人材やトンガのリーダーを育てようとして設立した学校なんです。だからこの学校を卒業したら行きたいところに入れてくれるんです。学校では6年間通ってそれからはFORM7(大学予備教育課程) というレベルに入って、Form 7が終わってから18歳で銀行に就職しました。
銀行には1年半働いて、それからどうしても大学に行きたかったからオーストラリアのマコーリー大学に入学して。2年間通ってコンピュータープログラミングを勉強してディプロマを取りました。そして銀行に戻ってトレーニングオフィサーとして皆にお金の数え方とか、窓口の対応なんかを教えてました。というのもATMがなかったのでお客さんは皆窓口でお金を下ろしたりしていましたから。大学を出てから銀行に戻ったらいきなりLevel 5だったんです。(銀行ではLevel 9から1までのランクがあって、一番下が9でトップである1はゼネラルマネージャーなんです。ちなみに4からがマネージャーです)僕は高校を卒業して入ったときは9だったのに、大学行って戻ってきたら5だったので、もう少しでマネージャーに成れるし「このまま銀行でずっと働いて結婚するのもいいな」と思ったんだけどね。銀行では高校を出てから1年半、大学を出てから2年半の合計4年間働いたんです。 なぜAPUへ行こうと思ったんですか?
APUのことが新聞にでていたんだ。というのもフィジーの大学(南太平洋大学、太平洋地域の様々な国々が参加する大学)が紹介していたんだ。そこで「Asian Pacificって言うんだからパシフィックな人が足りないんじゃない?」って思っていたんだ。僕らの住んでいる南太平洋から奨学金を出してAPUに行かせようとしているって聞いたんだ。そしたら僕に声がかかって、「応募してみない?」ってね。将来のリーダーたちを育てるところと書いてあったから、それを聞いて「APUに行ってみよう」と思って応募したんだ。 |
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来る前の日本のイメージはどうでした?
戦争があったけど、日本に対するイメージって言うのはとても良かったんだ。ハイテクで、京都みたいに緑があって四季があって綺麗な国ってイメージ。トンガにも日本人の人が居たけど、みんな綺麗で。だから日本に来てショックはなかったね。それにボクは勉強をするのが好きで、例えば茶道。最初は「なんでこんな苦いものを?」とか作法一つにしても「ん?」って思うことが多かったけど、茶道の先生から歴史的な背景を学んで始めて「なるほど!」って納得出来るんだよね。だから最初はお風呂は入るときも裸になるのに抵抗があったりしたけども、皆がそうしてるのを見たり日本の歴史なんかを勉強したりすると受け入れることが出来たんだ。僕は文化の違いにショックを受けたりするより、「受け入れよう」って思えるから。サンフラワー号に乗ったときも裕福な学生は「汚い」とか「普通」って言うんだけど、僕から見れば「ホテルみたい!凄い!」と思ったりすんだよね(笑)
それから日本に来て、別府での学生生活はどうでした?
いざ僕に決まったら凄い責任があるんだなって。トンガだけじゃなくて南太平洋の人たちも沢山の人が応募した中で僕がひとり選ばれたんだから。南太平洋の代表として、もっと言えば大使として日本に来たんだって思った。だからトンガダンスじゃなくてパシフィックダンスとして踊ったり、授業のプレゼンテーションでも自分の国だけでなくて周りの国々も紹介したり。私の国だけじゃなくて南太平洋の代表として来ているから誇りを持っていたいし、皆に悪いところは見せられない。皆に私たちのことを伝えられるように。特に私たちの国々から来ている人は少ないし、国にも天然資源はないから人材が一番の資源。そのためにも「日本で頑張らなきゃ!」って思ったんだ。毎週末には、ボランティア活動とか国際交流をしたり、それ以外にも学校の勉強もあったし凄く大変だったよ!特に日本語なんて全然分からないまま日本に来たんだ。ひらがな、カタカナ、それで漢字があって、その上これまでの言語とはまったく違う文法だから本当に難しくて。 “こんにちは”も“あいうえお”も分からなかった。それに今ではテキストも分かりやすい物になったんだけど、来た頃は僕らが最初の生徒だったからテキストも全然出来てなかったし、日本語の先生も英語が分からなかったんだ。だから本当にゼロからのスタートだったよ。毎日日本語のテストがあったり、覚えることも沢山あったけど日本語を覚えることが大事だと思ったし、誇りもあるからね。だから毎日先生に授業終わった後もずっと質問したり、残って勉強したりして毎日朝3時まで勉強してたよ。二ヶ月くらいしてから、日本語をどんどん使っていこうと思って話し始めたんだ。それからホストファミリーの家に泊まりに行ってずっと日本語を喋ったり。すぐにペラペラに喋れるようになったわけではなかったけど、徐々に日本語で話せるようになれたよ。とまぁ、日本語の勉強も学校の授業もあって、更に週末にはアクティビティに参加してたから本当に忙しかったよ。 |
APハウスでもずっと勉強したりして起きてたから、24時間空いてたから色んな人が出入りしてたよ。英語のレポートのチェックをしたり、僕も日本語を教えてもらったり。たまに僕が起きたら、友達が横で寝てたりして(笑)みんな家族みたいだったな。その後は何とか日本語の授業を1年半で終わらせたんだ。まだ上のクラスもあったんだけど「もういいです」って(笑)
勉強にアクティビティもして確かに忙しかったんだけど、週末の活動も凄くためになったんだよ。日本語の勉強になるし、分からないことがあったらすぐに聞くようにしたんだ。ミレニアムホールの講演なんかも全然分からなくても聞きに行って、日本語を聞く耳を鍛えて、「いつかこれ位上手く日本語を話せるようになってやる!」って思ってました。 市民の方々との交流はどうでしたか?
小学校に訪問したり、ボランティアに参加したりホントに忙しかったけど、楽しかったよ。APUのオフィスから連絡が来て「ドコドコに行くので、参加したい方は申し込みを・・・」と連絡を受けると友達にメールして「行こう、行こう!」って皆でバスに乗って色んなところに無料で行けたし、いい経験になったし。活動を通じてAPUの事も皆に知ってもらえたし。今では別府でも英語で挨拶してくれるし、お店にも英語の表示もあったり。来たばっかりの頃はそんなことはなかったよ。そう思うと別府も国際的な街になってきたんじゃない。クリスマスの時もライトアップとか凄いよね。
やっぱり私は体が大きいのでどこに居ても目立つんですね。中には目立つのは嫌だって人もいるだろうけど、僕も日本に来るまでは人見知りをしていました。でも国際交流の活動や経験を経て、徐々に人前でもしっかりと話せるようになりました。それに人と話すのも好きだから、まだ日本語をそんなに喋れない頃でもちっちゃい子供とかがボクのことを見ていると挨拶したり少し話したり。なかなか日本に居ると大きい人を見たりすることはないんじゃない?僕だって子供だったら見ちゃうし。日本人の人はシャイな人も居るし、僕から話しかけたりきっかけを作るようにします。それに別府の人たちに受け入れてもらうには信用されないといけないと思ったからね。僕には13歳離れた弟が居るんだ。それまで一番下だったから家族から可愛がってもらったんだけど、弟が出来たら今度は僕が弟の世話をすることになったんだ。大変だと思ったんだけど、勉強しながら世話をしてもぐずったり、泣いたりしなくて手のかからなかったんだよね。だから彼も僕のことを気に入ってくれて懐いたんだろうなぁ。それだけ年が離れていると自分の子どもみたい。日本に行くまで10年間ずっと一緒に居て世話もしてきて、自分の子どもみたい。 |
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やっぱり国を離れていて、家族に会いたいと思っても、バイトしたり奨学金もらったりしててもなかなか旅費を作ることが出来なかったんだよね。それで毎日バイトしてそのお金を毎月、両親に送っていたんだ。銀行で働いてきた頃にも家にお金を入れてたし、日本だと親から仕送りをもらうのが当たり前だと思うんだけど、僕の国では両親にお金を渡すのは当たり前なんだ。それに両親にお金を送ると凄く安心するんだ。とまぁ、仕送りはしていたんだけど、なかなか帰る機会がなくて。8年間日本に居て3回しか帰ってないんだ。それもたった1~2週間だけ。出来ればもっと長く居たいんだけど、なかなかそんなに長くは帰れない。一度弟が寝ている間に帰ったことがあって、夜の2時くらいだったんだけど。弟は翌日も学校があったから起こさないようにしようと思ってたんだ。だけどやっぱり何も言わないで別れるのは寂しいから、起こそうと思ったんだけど全然起きない、でもよく見ると涙を流してたんだ。きっと別れるのが弟も辛かったんだね。弟と同じ年ぐらいの子供を見ると思い出したり弟のように思うんだね。だから子供が好きなんだ。
それに別府でアクティビティに参加すると、色々な人と会って話をして「是非、家に遊びに来てください」とか「泊まりにきて」と言ってもらえるから、迎えに来てもらったりして遊びに行って1泊してその後も「また遊びにきて」って言ってもらえて。子供さんの誕生日になるとメールで連絡をくれたりして、また遊びに行ったりするんだ。だから申し込んだりしたわけじゃなくて、自分から話をしてホストファミリーを作っていったんだね。今はもう数えられないくらいホストファミリーの人が居るよ。でもそれもまた大変で(笑)学校があるから週末にしか泊まれない。そうなると月に4回しか行けない。でも皆優しいから、「毎週来てね」って言ってくれてうれしいんだけど大変だよ(笑) それに英語の先生を5年間して、毎年100人くらい参加するプログラムを担当していたんだけど、皆僕の事を慕ってくれるんだ。そうなると毎年クリスマスカードをくれたりして、その返事を書くのは大変だけど、僕は子供が好きだしうれしかったよ。こういう経験のおかげで今の僕があるんだと思うし、人を喜ばせたり、幸せそうな顔を見るのが好きなんだな。何か僕がしてあげると喜んでくれるとやっぱり嬉しいんだよね。 第1期生として来た頃の別府はどうでした? 始めは不動産屋さんもなかなか外国人だって事で部屋に入れてもらえないことも多かったんですよ。だから一年間、APハウスに居る間に色んな日本のマナーを学んだりして過ごしたね。やっぱりゴミの出し方とかでも初めは「なんでこんな風にわけるんだろう?」って思うことばかりだったから。海外から来た学生も多かったから、みんなでディスカッションしたりしてました。 |
それから中国、インドネシア、日本の学生と一軒家をシェアして住んでいました。2~3年後くらいかな?だんだん不動産屋さんもいれてくれるようになって、今ではほとんど大丈夫になってきたでしょ。1年間2年間3年間と、別府には色んなお祭りとかイベントがあるから、徐々に学生のみんなで頑張って参加したり。国際交流とか、ボランティアもして。それまでボクは自分の国の踊りとかしたことなかったんだよ(笑)APUが国際的な大学だから、自分の国をアピールしたかった。そうなると自分の国の文化を紹介するには踊るしかない。でも凄い恥ずかしくて、衣装も上半身裸で腰蓑をつけて踊るんだから(笑)
現在のお仕事は留学アドバイザーですよね?どういったことをされていますか?
アカデミックアウトリーチオフィスの留学アドバイザーとして勤務して2年目になります。今まで二百人くらいの学生の留学を担当したかな。僕はあくまでアドバイザーなんだけど、ただ僕からこうしたほうが良いよとはいいません。本人がなぜこの国に行きたいのか、なぜその大学なのかって事を本人にしっかり答えてもらえるように考えてもらうように話をします。その上で「更にこういう学校や国もあるよ」って事をアドバイスしたりしてます。他にも留学するには資格(TOEFLのスコア)も必要だし日本に居る間に準備が必要、更に学生には就職の事もあるからスケジュールに関する事もアドバイスしますね。
特にアクティブラーニングというプロジェクトに力を入れていて、これまでは留学や語学研修が主流だったんだけど、それ以外にもとにかく学生に海外に行ってもらえるように、様々なプログラムを用意しています。テーマ別プログラムでは、学びたいテーマについてフィリピンやタイで様々なアクティビティに参加出来るプログラムがあります。グローバリゼーションがあって社会は様々な考え方を持った人材を必要としていますから、海外で様々な考え方を学べるようにしています。確かにAPUでは英語を学ぶことは出来るけど、なかなかこうした考え方や体験をすること、触れることは出来ないから、どんどん海外に出て行って、様々な国々で新しい考え方を学んでほしい。だから留学のように長期で海外に行くことが出来ない学生にも、2~3週間とか短い期間でもプログラムはあるし是非とも行ってみてほしいね。私も卒業生として、やっぱり学生には色んな経験をしてほしいと思っていますので応援しています。
最後に何かメッセージはありますか? APUには多くの国際学生が在籍しています。別府では多くの学生たちがイベントや国際交流の活動に参加し、以前に比べ国際的な街になったと思います。これからは日本中が国際的になってほしいと思っていますので、日出や佐伯にもAPUの学生を派遣したいと考えています。学生は踊りや歌などのパフォーマンスも出来るので、イベントなどありましたら是非呼んでください。
お忙しい中、今日はありがとうございました。 |
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記者:北島朋哉 |
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